普通に考えれば、ストレリチアとシェークスピアは何の関係もありません。でも、私にとっては、「大あり」で、これなくして南アフリカでの自生地調査は成功しなかったのではないかと思っているほどです。
ストレリチアの故郷を訪れたいとの思いで、やっとのことで1975年6月、南アフリカケープタウンにたどり着きました。しかし、どこを当ってみても、どこへ行けばよいのか皆目、見当が付かず、一時は日本へ帰らなければならないのかと思うほどの有様でした。ストレリチアの自生に出会うのが、如何に難しいことなのか、何も知らなかったのです。
ケープタウンの日本領事の紹介で、ようやく、キルステンボッシュ植物園のテーラー氏やケープタウン大学のスカルピ教授の紹介で、ポートエリザベスのセントジョージ公園のシェルトン氏なら案内できるだろうと教えてもらうことが出来ました。
ケープタウンから東へインド洋沿いにポートエリザベスまでバスで2日の旅でした。ところが当時は人種差別が甚だしく、日本人は名誉白人待遇とされていても、それは表向きのことでポートエリザベスのホテルはバスガイドの紹介で、やっとで泊めてもらえるありさまでした。翌日は、もう、追い出されてしまったのです。
朝、セントジョージ公園の官舎に向かいました。前もっての連絡もなし、しかも日曜の朝で失礼なことはわかっています。でも、私には、そうするしかありませんでした。それでも、応対したシェルトン氏は気分良く会ってくれたのでほっとしたのを覚えています。私の用件を快く聞いてくれて、午後、ジャンセア自生地へゆくことにして、午前中は公園一帯を回ることにしました。公園といっても日本と違い、スポーツを始め野外活動全般の施設を管理していたのです。
公園の一角に石作りのギリシャ風の大きな野外劇場に案内されたので、わたしは中央の舞台に立ってみました。その時、私は自分でも考えられないことをしてのけたのです。
「TO BE OR NOT TO BE THAT IS THE
QUESTIONI
と、ハムレットのせりふ一節を腕を振りながら叫んだのです。
すると、とたんにシェルトン氏が驚いたような顔をしたのに気がつきました。これは後からわかったことですが、ポートエリザベスは英国系の移住民が多く、この劇場でもシェークスピア劇を上演することが多いのだそうです。それでも、一般の人々は観客であって、語る事が出来るのは教養豊かな人だけらしいといいます。それを、英会話も満足にできない日本人がやってのけたのです。
そんなことから、今朝、いきなりやってきた日本人を見直したらしいのです。私にしてみれば、高校生の時に一生懸命に勉強したことを思い出しただけのことだけだったのですが。
日本流にいえば、日本へやってきたばかりの外国人が、いきなり、「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり、沙羅双機の花の色、盛者必の理を表わす」と平家物語を語り出したようなものだ、とでもいえましょうか。
その後のストレリチアの自生調査はシェルトン氏のおかげで順調に進むことができました。その後、イーストロンドン他の自生地の案内を友人に依頼するなど次々に拡がっていつたのです。私にしてみれば、あの時のシェークスピアあればこそ、の思いが強いのです。ストレリチアの研究者だから、ストレリチアだけをやっていればよいわけではありません。何が役に立つかわからないのが人生なのです。

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